ILIADS
オリジナルストーリー『EULYSSES』に至るまでの、我々の世界との分岐を描いた前哨的物語『ILIADS』の作品解説。
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ILIADS年譜
BC560年前後
―釈迦、誕生。
BC500年以降
―ディーヴァダッタ、釈迦と決別し西へ向かう。
―ピタゴラス教団、設立か
BC399年
―ソクラテス処刑
BC347年
―アルキタス、ピタゴラス学派の一部、そしてアリストデモスと共に西へ旅立つが船が難破し溺死。彼以外の遺体は確認できず。
BC307-306年
―エピクロス、アテナイにて「エピクロスの園」なる学園を開校する。ピタゴラス学派の人間がエピクロスに近づくも、決裂した模様。エピクロスは以後死ぬまでアテナイにて教鞭を振るう。
AD1世紀~2世紀
―グノーシス主義台頭するも異端と多数派から迫害を受ける。
432年以降
―エリウ島(ヒベルニア)のケルト、聖パトリックによるキリスト教への改宗進むも、その内容はケルト色を強く反映した独自のものに。
477年
―スリランカ王ダートゥセーナ王、側室腹のカーシャパ王子に殺害され、カーシャパ王が即位。シーギリヤの巨岩上に空中宮殿を建設し、首都をアヌラーダプラからシーギリヤに遷す。
495年
―南インドに亡命していた正室腹の王弟、モッガラーナが亡命先の南インドチョーラ家の支援軍と、モッガラーナを支持する本国勢力らの支持軍を率いてカーシャパ王軍を駆逐、カーシャパ王、喉をかき切り自決する。首都をアヌラーダプラに戻し、シーギリヤの存在は封印された。
11世紀
―ブリテン諸島をヴァイキングが強襲。イングランドのアルフレッド大王、及び、ヒベルニア上王ブライアン・ボルーはこれを撃退した。
12世紀
―アイルランド内乱、レンスター王ダーモット・マクマロー、ブレフネ豪族「隻眼王」ティアノン・オロークに敗れ大陸へ逃走、この際に、ヒベルニアのキリスト教が異端であるとしてローマ教皇ハドリアヌス4世に告発し救援を求めた。ハドリアヌス4世は正しい信仰をヒベルニアに齎す為に十字軍(クルセイダーズ)の派兵をイングランド王ヘンリー2世に実行させるも、ヒベルニア上王ローリー・オコナ―がこれを撃退、防衛する。ヒベルニア、ハイバーンランドと改名。
1541年
―イングランド王ヘンリー8世、クック家の仲介によりハイバーンランドの主卿フィアン・イニス・バーン=ブレイクにマグメル伯爵位を創設し、その地位を与える。フィアンはハイバーンランド統治権をヘンリー8世に委任し、国教政策を推し進めるヘンリー8世を支援することを盟約。イングランドに渡りトマス・クロムウェル亡き後の政治を支える。
1545年
―ハイバーンランド、イングランドと同盟を結ぶ。
1547年
―ヘンリー8世死去、エドワード6世即位。
1553年
―エドワード6世死去。
―メアリー女王即位、国教派を弾圧開始。カイル・ハミルトン・バーン=ブレイクを処刑、マグメル伯爵位を剥奪、夫であるイスパニア王フェリペ2世にその伯爵を与えようとするが、臣下位のためフェリペこれを拒否し、マグメル伯爵は一時廃止される、。ハイバーンランドは是に反発し、エリザベス王女にハイバーランド盟主を主張してイングランドからの女王の使節をことごとく拒否する。メアリー女王はハイバーンランド征服のための派兵を計画するが、トゥーレランド(アイスランド)の宣戦布告もあり夫フェリペのフランス派兵要請を優先させ、ハイバーンランド問題に具体的対策が打てず対立が続く。
1559年
―イングランドのメアリー女王死去、エリザベス女王即位。同時にマグメル伯爵を復活し、エリック・ガスコイン・バーン=ブレイクに与える。スコットランド、カトリック女王メアリー女王を追放する。メアリー元女王、息子を連れイスパニアに亡命。
1589年
―追放されたスコットランド王家メアリー、スコットランド帰国途上の船内で死去。息子ジェームス6世、母がイングランドの諜報員に暗殺されたと主張し、支援国スペインが彼を新イングランド王にするためエリザベス女王に対し宣戦布告。
1590年
―アルマダ海戦勃発。トゥーレランド(アイスランド)がイングランド・ハイバーンランドに加勢し、これを恐れたスコットランドはスペインを裏切り、スペインはイングランドに敗北した。スコットランド議会はイングランドに王位委譲を承認し、イングランドの支配下で連合王国となる。
1600年
―エリザベス女王、「公帝制」を自身の死後導入を発表。ハイバーンランド、イングランドと連合王国となる。
1603年
―公帝制開始。
1612年
―トゥーレランド、イングランド及びハイバーンランド連合と統一。イギリス誕生。
1784年
―時の日本の老中、田沼意次の息子・田沼意知が強襲されるが、偶然江戸城にオランダ商館長イサーク・ティチングと共に登城していた彼のイギリス人助手、シュレーヴァ・カスパド・バーン=ブレイクの手当てにより一命を取り留める。
1801年
―幕府、オランダ・イギリスを通じて開国政策に踏み切る。元号は百年一元とし、この年より1900年まで明治となる。
1820年
―幕府と朝廷の公武体制へ移行。
1850年
―公武体制はその行政権限を漸次放棄し、民主政治に移行することを発表。公武制は1855年をもって廃止、江戸を東京と改め、半大統領制を基本とした議会制政府とすることを表明。
1855年
―日本国政府成立。
―釈迦、誕生。
BC500年以降
―ディーヴァダッタ、釈迦と決別し西へ向かう。
―ピタゴラス教団、設立か
BC399年
―ソクラテス処刑
BC347年
―アルキタス、ピタゴラス学派の一部、そしてアリストデモスと共に西へ旅立つが船が難破し溺死。彼以外の遺体は確認できず。
BC307-306年
―エピクロス、アテナイにて「エピクロスの園」なる学園を開校する。ピタゴラス学派の人間がエピクロスに近づくも、決裂した模様。エピクロスは以後死ぬまでアテナイにて教鞭を振るう。
AD1世紀~2世紀
―グノーシス主義台頭するも異端と多数派から迫害を受ける。
432年以降
―エリウ島(ヒベルニア)のケルト、聖パトリックによるキリスト教への改宗進むも、その内容はケルト色を強く反映した独自のものに。
477年
―スリランカ王ダートゥセーナ王、側室腹のカーシャパ王子に殺害され、カーシャパ王が即位。シーギリヤの巨岩上に空中宮殿を建設し、首都をアヌラーダプラからシーギリヤに遷す。
495年
―南インドに亡命していた正室腹の王弟、モッガラーナが亡命先の南インドチョーラ家の支援軍と、モッガラーナを支持する本国勢力らの支持軍を率いてカーシャパ王軍を駆逐、カーシャパ王、喉をかき切り自決する。首都をアヌラーダプラに戻し、シーギリヤの存在は封印された。
11世紀
―ブリテン諸島をヴァイキングが強襲。イングランドのアルフレッド大王、及び、ヒベルニア上王ブライアン・ボルーはこれを撃退した。
12世紀
―アイルランド内乱、レンスター王ダーモット・マクマロー、ブレフネ豪族「隻眼王」ティアノン・オロークに敗れ大陸へ逃走、この際に、ヒベルニアのキリスト教が異端であるとしてローマ教皇ハドリアヌス4世に告発し救援を求めた。ハドリアヌス4世は正しい信仰をヒベルニアに齎す為に十字軍(クルセイダーズ)の派兵をイングランド王ヘンリー2世に実行させるも、ヒベルニア上王ローリー・オコナ―がこれを撃退、防衛する。ヒベルニア、ハイバーンランドと改名。
1541年
―イングランド王ヘンリー8世、クック家の仲介によりハイバーンランドの主卿フィアン・イニス・バーン=ブレイクにマグメル伯爵位を創設し、その地位を与える。フィアンはハイバーンランド統治権をヘンリー8世に委任し、国教政策を推し進めるヘンリー8世を支援することを盟約。イングランドに渡りトマス・クロムウェル亡き後の政治を支える。
1545年
―ハイバーンランド、イングランドと同盟を結ぶ。
1547年
―ヘンリー8世死去、エドワード6世即位。
1553年
―エドワード6世死去。
―メアリー女王即位、国教派を弾圧開始。カイル・ハミルトン・バーン=ブレイクを処刑、マグメル伯爵位を剥奪、夫であるイスパニア王フェリペ2世にその伯爵を与えようとするが、臣下位のためフェリペこれを拒否し、マグメル伯爵は一時廃止される、。ハイバーンランドは是に反発し、エリザベス王女にハイバーランド盟主を主張してイングランドからの女王の使節をことごとく拒否する。メアリー女王はハイバーンランド征服のための派兵を計画するが、トゥーレランド(アイスランド)の宣戦布告もあり夫フェリペのフランス派兵要請を優先させ、ハイバーンランド問題に具体的対策が打てず対立が続く。
1559年
―イングランドのメアリー女王死去、エリザベス女王即位。同時にマグメル伯爵を復活し、エリック・ガスコイン・バーン=ブレイクに与える。スコットランド、カトリック女王メアリー女王を追放する。メアリー元女王、息子を連れイスパニアに亡命。
1589年
―追放されたスコットランド王家メアリー、スコットランド帰国途上の船内で死去。息子ジェームス6世、母がイングランドの諜報員に暗殺されたと主張し、支援国スペインが彼を新イングランド王にするためエリザベス女王に対し宣戦布告。
1590年
―アルマダ海戦勃発。トゥーレランド(アイスランド)がイングランド・ハイバーンランドに加勢し、これを恐れたスコットランドはスペインを裏切り、スペインはイングランドに敗北した。スコットランド議会はイングランドに王位委譲を承認し、イングランドの支配下で連合王国となる。
1600年
―エリザベス女王、「公帝制」を自身の死後導入を発表。ハイバーンランド、イングランドと連合王国となる。
1603年
―公帝制開始。
1612年
―トゥーレランド、イングランド及びハイバーンランド連合と統一。イギリス誕生。
1784年
―時の日本の老中、田沼意次の息子・田沼意知が強襲されるが、偶然江戸城にオランダ商館長イサーク・ティチングと共に登城していた彼のイギリス人助手、シュレーヴァ・カスパド・バーン=ブレイクの手当てにより一命を取り留める。
1801年
―幕府、オランダ・イギリスを通じて開国政策に踏み切る。元号は百年一元とし、この年より1900年まで明治となる。
1820年
―幕府と朝廷の公武体制へ移行。
1850年
―公武体制はその行政権限を漸次放棄し、民主政治に移行することを発表。公武制は1855年をもって廃止、江戸を東京と改め、半大統領制を基本とした議会制政府とすることを表明。
1855年
―日本国政府成立。
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